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2011年2月25日 (金)

『Not guilty but not innocent』(16)

 挨拶をして立ち上がろうとすると、
「……ああ、そうだ。付き添いの方ですが、何やら急な呼びだしとかで、仕事場の方に向かわれてしまいましたので、誰かうちのものに送らせます」
 と呼びとめられた。道理で姿が見当たらないと思った。
「えーと……でもまだ電車が」
 申し出はありがたいけど。送るって、車で、だよな。
 ふと、自分が手ぶらなことに気付く。
「……あ、財布がない、か。……ああっ!うちの鍵も預けっぱなしだ」
 持ってきた小ぶりなトートは、事情聴取に入る前にセンセイに預けたんだった。
「鍵も、ですか?」
「……どうしよう」
 こんな時間に呼び出されたんだったら、たぶんすぐには連絡がつかない。下手すると徹夜だ。……っていうか、ケータイも中だ。番号はたぶん出てくるけど、財布ないし。
「管理会社とか、スペアキーを預けているところとかは?」
「管理会社はキーの管理はしていません。スペアキーも自宅です」
 正確に言えば、他にスペアがない訳ではない。センセイのところにも一本行ってるはずだし、もう一か所保管場所があるのだが、そこはうちよりも遠い。
「……すみませんが、電話、お借りしてもよろしいでしょうか?……あと、下のロビーにしばらく居させていただきたいんですが」
「構いませんよ。ただ、経費節減を言い渡されているので、常識的な範囲内で」
「常識的?」
「何本も国際電話を掛けるとか、一晩中ロビーの明かりを煌々とつけっぱなしにするとか」
 ……そういうのは、非常識、というよりずうずうしいっていうんじゃないのか?
 迷惑、っていう点ではどっちも大差ないか。
「何カ所かになるとは思いますが、あまりご迷惑にならないようにはしたいと思います。……じゃ、お借りしますね」
 まず、ケータイに掛けてみる。電源がOFFになっているらしく、伝言サービスにつながったので、鍵と財布がなくて家に帰れない、と伝言を残す。
 次に医局への直通番号を試してみる。十五回コールしてみたがつながらない。
 病棟の方に掛け直してみると処置を終えて医局の方に戻ったとのこと。
 入れ違ったか。しばらく待って掛け直そう。
「なかなか捕まらないみたいですね」
 デスクの上にコーヒーの入ったプラスチックのカップが置かれる。
「まあ、こんな時間ですから。昼間だったら、誰かに伝言が預けられたんですが」
 平日昼間なら、本人がどこかをうろうろしていても、事務員がいるはずだ。
「……こんなことなら、財布くらいは手元に持っとけばよかった」
「そもそも、どうして手ぶらで事情聴取を受けようと?」
 世間話でもするように刑事が訊いてくる。
「えーと……なんとなく、っていうか……逮捕されちゃうかも、って思ったので」
「……逮捕?」
「よく、事故のニュースで『運転手を現行犯逮捕』とかって言われるので、……牢屋に入れられちゃうのかと」
 刑事が苦笑した。
「ああ、なるほど、ね。事故のニュースではその後どうなったかとか言いませんからね。そういう場合でも、事情聴取して書類を作ったらお帰り願いますよ。……よっぽど性質が悪くない限りは」
「タチ?」
「例えば、同乗者に口裏合わせを要求しそうな気配が窺える、とか」
「ああ、逃亡や証拠隠滅の虞、ですか」
「その点あなたは、……まあ清々しいほど全部置いていかれましたからねえ。ま、逃亡の虞がない、とは言い切れませんが」
 やった《本人》は逃げてるけどな。これに懲りておとなしくしててくれると助かるんだが。
 刑事の胸ポケットでケータイが鳴る。
 開いた画面を見て怪訝そうな顔をしながら電話に出る。
 しばらくやり取りした後、少々お待ちください、と言っておもむろにこちらにそのケータイをよこす。
「あなたの『主治医』から」
 何でこの番号にかかってくるんだろう?と思いながら受け取ったケータイに出る。
「もしもし?」
『留守電聞いた。鍵がないって、どうして?』
「トートバッグ、預けたでしょ。財布も鍵もケータイも、全部あの中」
 あ、と向こうが絶句する。
「うちの前で鍵がないのに気付いたんじゃなくてよかった。警察の人が送ってくれるって言ったんだけど」
『送る、って……大丈夫なのか?』
「だから、電車で帰ろうとしたら、財布がないのに気付いて、そういえば鍵もない、って」
『んー……困ったな。ちょっと立てこんでて、すぐそっちには行けない。バッグは車の中なんだが』
「夜間受付あたりに預けておいてくれれば、取りに行くけど?」
『財布もないのに、どうやって?』
 そうだった。
『それに、そろそろバスなくなるぞ』
「……そう?まだ十時前なのに」
『あのな』
 どうやら説明モードのスイッチが入ってしまったらしい。ここと病院を結ぶ路線バスがない事、ここも病院も駅からそれなりに距離がある事、などについて説明し始めた。
 途中で刑事が「失礼」と言ってケータイを取り上げなければ、公共交通機関を使っての移動にどれくらいかかるかについて延々とレクチャーし続けたに違いない。
「お電話かわりました。こちらのお嬢さんは、わたくしどもが責任を持ってご自宅まで送り届けますのでご安心ください」
 お嬢さん、て。話している相手があのセンセイかと思うと、急に自分が小学生か園児にでもなったような気になる。
 しばらくやり取りした後、「じゃ、そういう事で」と通話が切られる。
 ふう、と溜め息をついてケータイをしまいながらこちらを見る。
「自動車のリアシートがだめなんだって?」
 やっぱりその話をしてたのか。
「特に外が暗いと。短時間なら大丈夫なんですが」
 どういうわけか《あたし》は平気っぽいのが、なんか癪に障る。
「それもやっぱり、事故の後遺症で?」
 後遺症、というのとは少し違う気もするが、あの事故までは普通に乗れてたのだから、そう言っても差支えないだろう。
「タクシーに乗れないので、時々困ります。乗り物酔いではないので、バスとか電車なら大丈夫なんですが」
「助手席だったら、大丈夫なんですね?」
「今のところは。たぶん。安全運転なら」
 他にあの事故を連想させる要素がなければ。音とか、匂いとか。
 あの日。
 家族そろっての、最後の外出になった日。
 手のひらを強く握りこんで連想を押しとどめる。
「安全運転なら、保証しますよ。なあ?」
 いつの間にか後ろに来ていた若い刑事に声をかける。
 まあ、事件でもないのに、警察車両が事故を起こしていては示しがつかないしな。
「感謝しろよ。こんな美人が覆面パトの助手席に座るなんて、めったにないんだからな。二人っきりにしてやりたいが、そうもいかないけどな」
「……だったら、自分で運転すればいいじゃないですか」
 軽口にむすっとした声が応じる。
「こんな美人横に置いたら緊張しちゃうだろう。それに後ろからの方がじっくり鑑賞できるし」
 不細工とは思わないが、じっくり鑑賞されるような顔でもないと思う。
 ……ああ、もしかしたら、こっちの刑事もメモリーカード見たのか。
「ええと……もしご迷惑でしたら、電車とバスで」
「いや、迷惑だなんて。この人がつまらない冗談を言うのがいけないんです」
「そのつまらない冗談の乗っかるお前も同罪だ。とっとと車を出す」
 自分が一言多いのを棚に上げて急かす。

2011年8月12日 (金)

七夕小説

「文(ふみ)を代書してくれませんか」
 思い詰めたような顔をして、言い難そうにそう切り出したのは、手代の梁。
「それは構いませんが……何処の誰宛にです?」
 そう訊ねると顔を赤らめて俯く。
 ははあ、女がらみか。
 しかし珍しい。
 梁は堅物で通っていて、三十になるこの歳まで浮いた噂ひとつない男だ。色街に足を踏み入れたって話も聞かなきゃ、邸の女奉公人とさえ、めったに口を利かない。……もっとも、男の奉公人とだって、必要最低限の話しかしないって噂だが。かく言う俺も、やつの声を聞いたのは初めてだ。……と思う。
「――の――」
 蚊の鳴くような声で告げられたのはどうやら女の名前だが、よく聞き取れない。
「はい?」
 改めて訊き返すと、鄭家の奉公人で名を小蓮という娘らしい。
 鄭家といえば付き合いのない家ではないから、そこの奉公人と知り合うのもおかしくはないが……
 まあいい。やつがどうやって女と知りあったかなぞは俺には関係のないことだ。
「で、どういった内容です?『嫁に来てください』ですか?」
「い、い、いや、いきなりそんな……」
 慌てたように手をばたばたさせる。
「いずれは、とは思っていますが、まだそんな……」
「……まさか、とは思いますが、話をしたこともない、とか?」
 顔を一層赤らめて頷く。奥手にもほどがある。
 まあ、旦那様が嫁を世話してやろうとしても、固辞したって男がその気になったっていうのが驚くべきことではあるので、なんとかそれらしい文章を見繕って持たせてやった。

 十日ほど経って、梁がまた俺の前に現れた。返事をもらったので、読んでほしい、というのだ。
「返事、って、直接聞いた訳じゃないんですか?」
 聞くと、なかなか手渡す折が無く、人を介したのだという。それじゃちゃんと本人に渡ったのかどうか怪しい、と指摘すると、遠目ではあるが彼女が受け取るところを見たという。
「受け取ってすぐ、誰かに呼ばれて懐にしまってしまったので、ちゃんと読んでもらえたかどうか心配してたんですが……」
 どうやら相手の娘もそれなりに忙しいらしい。
 早く返事が知りたいらしくてうずうずしている様子の梁に急かされて文を開く。
 開いた瞬間、妙な懐かしさが頭の端をかすめる。
 その懐かしさの源がなんであるのか確かめる暇もなく、流麗な女手の文に目を落とす。
 小蓮からの返事はそんなに長いものではなかった。
 あなたの顔と名前は存じ上げていました。ですがあなたの事はそれしか知らないし、それにまだ自分は年季がだいぶ残っていてそういう事を考える暇も気力もありません、というのが概ねの趣旨だった。
 残念だが、遠回しなお断り、と言ってよかろう。
 梁はあからさまにしょげた。
「待ってください、続きがあります」
 小蓮の言葉を綴った本文とは別に、この文を書いた女性の意見であろう添え書きがつけられていたのだ。
 それによると、小蓮が入りたてで余裕がないのは事実だが、彼女の様子を見ると、全く脈が無い、という訳でもなさそうだ。なので、焦らずに折りを待て、とのことだった。
「焦らずに、って……ど、どうすれば」
 途方に暮れたような表情の梁にできた助言は、「まあ、嫌われない程度に、相手に自分の事を好いてもらえるように努力することですね」と当たり障りのないものだった。
「だから、それはどうやって……」
とうろたえる梁を、それは自分で考えろ、彼女の事はお前の方が詳しいだろう、と突き放す。
 こっちはそれどころではない。
 件の女は続けて、俺に宛てたと思われる意味深な言葉を書いていたからだ。

『七夕の約束を、覚えていますか』

 覚えが無い、というか、あり過ぎる、というか……だいたい、その『約束』はいつ頃のことだ?
 こんな流麗な文字の書ける女だ、どこかの妓楼上がりだろう。だとしたら……
 妓女相手のその場限りの空約束なら、数えきれないほどしている。
 たいていは閨での睦言のついで、その場の勢い、思いつきだ。
 相手もそんな約束を信じている訳ではないだろう。……と、思っていた。
 だが、そうではない、としたら?
 背筋が寒くなった。
 ……いや、待て。
 そもそもこの女、何を根拠に『約束』の相手がこの手紙を受け取ると考えた?
 もしかしたら、人違いではないのか?
 ……一晩考えても判らないので、そういう結論に達して、その事は忘れることにした。
 気軽な食客の身とはいえ、こまごまとした雑用は次々と持ち込まれるのだ。
 多少の引っかかりを覚えても、自分に宛てたものだという確信のない言葉なぞに、いつまでもかかずらってはいられないのだ。

 その後、梁と小蓮の仲が進展したかどうかは、定かではない。
 やつが代書を頼みに来ないからだ。
 ……という事は、直接話をする事くらいはできるようになった、という事かもしれないが。

 乞巧奠(きっこうでん)は技芸の上達を願う祭りだ。
 天帝の怒りに触れて離れ離れになった夫婦の再会を願う祭りでもある。
 だから、俺の育った田舎では、徴兵された夫の無事を祈る祭りでもあった。
 笑いあいながら五色の糸で飾り付けをする女たちを見てそんな事をふと思う。
 なぜ、そんな事を思い出したのか。田舎の事を思い出した事なんて、久しくなかったのに。
 少し考えて、その理由らしきものに思い当たる。
 流麗な女手の主が寄越した、謎の伝言の事が、どこかにひっかかっていたのだ。
 あれは確か、冬の終わりごろだった。なのでかれこれ半年近く前になる。
 きっと人違いだろう、と結論付けて忘れることにしたはずだったのだが……
 しぶとく覚えていた自分に、思わず苦笑する。
「何かおかしな事でも?」
「ああ、いえ、……ただの思い出し笑いです」
「思い出し笑い?珍しいこともあるのね」
 鄭家の女主が父親に似た、人をからかうような笑いを浮かべる。
「私だって思い出し笑いくらいしますよお嬢様」
 若くして寡婦になった彼女は、昔から子ども扱いを殊の外嫌っていた。
 ささやかな意趣返しは幼い子を抱えて五年もこの家を切り盛りしてきた彼女には何の痛痒も感じさせなくなっていたようだ。
「ですってよ、梨々」
「何か言ったぁ?」
 不意に呼びかけられて、部屋の反対側で飾り付けをしていた彼女の娘が纏足の小さな足でよちよちとこちらにやってくる。
「呼んでいませんよ。母君の聞き違いです」
 大人の話に混ざりたい少女をそうやっていなし、女主が返書をしたためるのを待つ。
 彼女が文箱から硯を取り出して墨を擦りだすのを見て、「あ」と声を上げる。
「何か?」
 女主が怪訝な表情で顔を上げる。
「いえ、何でもありません。……ちょっと思い出した事があったので」
「今日は変ですね。思い出し笑いをしたり、いきなり叫んだり。……雨にならなければよいのですが」

 『文房四宝』という言葉がある。筆・墨・硯・紙、特にその名品を指す言葉だ。
 『宝』とは言われているが、結局は消耗品で、どんなにありがたがっても使わなければその価値はないし、使えばなくなってしまう。
 死んだ俺の親父は、その墨作り職人だった。
 そして、
 あの文を開けた時に感じた、妙な懐かしさ。あれは……
 親父の墨の香りだ。
 だがなぜ?
 親父は特に名人という訳でもなかった。だからあの墨をありがたがって愛蔵するような者はなく、もうこの世に親父の仕事はなくなっていると思っていた。
 もし、残っているとすれば……

「この近所で、代書をする女性をご存じありませんか?老若は問いませんが」
 女主が返書をしたため終えるのを待ってそう訊ねる。
 数人の名前が挙げられた中に、引っかかる名前があった。

「恨み言の一つも言われるかと思った」
「どうして?」
 七日夜の月明かりの下、そこだけは少女の頃と変わらない大きな目が俺の方を見上げて言った。
「その……約束が守れなくて」
 『七夕の約束』。思い出してみればそれは大したことのない約束だった。

 墨を作るには、時間が掛かる。
 油を燃やして煤を集め、膠や香料などと混ぜて練り固め、型に入れて乾燥させ、形を整えて出来上がり。
 一言で説明すると、それだけなのだが、最後の『乾燥』が厄介だ。じっくりと時間をかけて乾燥させないと、ひびや割れが入る。乾燥している間の置き方が悪いと、形が歪む。そうなってしまうと、もう出荷はできない。
 若い時分、そういった墨を使って近所の子供たちに手習いをしていた時期があった。
 彼女はその頃の生徒の一人だった。しかも、かなり出来が良い方の。
 歪んだり割れたりしたのじゃなくて、ちゃんとした墨が欲しいな、という愚痴に、なんとかしてやりたい、と思うほどに。
 親父が死ぬ前の年の七夕に、まだ乾燥を終えていない生の墨を彼女に贈ったのは、そんな気持ちの表れだった、と思う。
 乾燥させるにあたっての注意を事細かに教え、巧く仕上げる事ができたら、来年はちゃんとしたのを上げよう、と。
 親父が亡くなったのは、翌年の冬で、長兄が工房を継いだ。兄は親父が守り続けた材料の調合を変えてしまったので、親父の墨はそこで途絶えた。
 俺はそれを機にうちを出た。兄とはあまり折り合いが良い、とは言えなかったからだ。
 そのせいで、約束を守る事はできなかったのだ。
 故郷を出てしばらくの間はその事で胸が痛んだが、やがてそれも薄れてしまった。

「そりゃ、あの時は『約束が違う』と思いましたよ。でもこの歳になると、約束を違えられる事なんて、ねえ?」
 言外に苦労の多い人生だったと匂わせる。

 際立って人目を引く、という容貌ではない。
 だがその話し方は落ち着いていて、深い知性を感じさせる。

「じゃあ、どうしてあんな……いや、それ以前に、どうして俺の事が?」
「それは……手跡(て)を見れば……」
 手跡?自慢じゃないが、俺の字は読みやすいだけが取り柄で、人に覚えられるほど印象的なものではない。
「そんな、一目見て判るような癖はないはずなんだけどなあ……」
「そりゃ、毎日見ていれば……」

 こちらを見ていた顔がふと逸らされる。七日夜の月明かりは、それだけで彼女の表情を隠してしまう。

「毎日?」
「手本帳をくれたでしょ?ご自分で書いたのを」
 そんな事もあった……だろうか?
 それにしても。
「あるかないかも自分では判らないような癖を覚えてしまうほど?」
 小さな髷を結った頭が頷く。
「……どうして?」
「そんな事、女の口から言わせるおつもりですか?」
「うーん……その辺の機微が解らないあたりが、未だに独り者な理由だと思う」
 甲斐性がない、というのも大いにあるとは思うが。
「解ってて人に言わせようとするのがいけないのかもしれませんよ?……こんな人だと解っていれば……」

 解っていれば、どうだったというのだろう?
 あんな事は書かなかった、だろうか?それとも……
 彼女がかつての向学心に燃えた少女ではないように、俺も昔のような……何だろう?とにかく、昔の俺ではない。
 暗がりの方を向いているので、彼女がどんな表情をしているのかわからない。

「失望、しました?」
「……どうでしょうか?でも、思い出せていただけて良かった。半年も音沙汰がなかったので、もしかしたら私の勘違いだったかしら、と思いかけていました」
 暗がりに向けていた顔を体ごとこちらに向けて微笑む。
「今更『約束を果たせ』とは申しませんから、ご安心なさって」

 彼女の方から話を畳もうとしている。
 自分の方から謎かけをしてきたのに。

「息災でいらっしゃると判って安心いたしました。では……」
 軽く頭を下げて踵を返す。
「待ってください」
 向こうへ行きかけた動作が止まる。でも、顔は向こうを向いたままだ。
「また……会っていただけますか?」
「お互いの居所がわかっているのですもの。会おうと思えばいくらでも会えますわ」
 背中を向けたままそう答える。
 まっすぐに伸びた背中が美しい。
 人に頼って、人に守られて生きて来た女のそれとは違う背中。
「会うのを妨げるようなひとはいませんし。……私の方には」
 翻って自分の体たらくを思う。
 どの面下げて『また会いたい』などと言えるのか。
「では……来年の今日、同じ場所で」
「楽しみにお待ちしていますわ」

 彼女はそのまま、一度も振り返らずに去ってしまった。
 あの背中にふさわしい、とまでは言わない。
 かつての少女を失望させない男にならなくてはいけない。
 来年の七夕までには。

«がーがーちゃんが、いっぱい。